時を越えて静かに息づく
熊本市南区城南町は県内有数の遺跡の宝庫です。これらの遺跡からの出土品を中心に展示する考古展示室には、先史時代から古代までの資料約300点を展示しています。展示品の中には国指定の重要文化財『台付舟形土器』をはじめ、塚原古墳群の発掘品や九州において、考古学の礎を築いた小林久雄氏の収集品(通称 小林コレクション)など考古学史を語る上で貴重なものも多数含まれています。
考古展示室
- 01旧石器(展示)
人類が地球上に現れてから、人は火を使ったり粗末な石器を持つことなど、道具を用いる事を覚えました。人々は数回の氷河期の訪れや、きびしい自然環境の中で生き抜いたのです。この時代のことを考古学では旧石器時代といいます。そして今から約3万8000年から1万6000年前まで(約2万2000年間)続きました。 城南町域にある県内最古の沈目(しずめ)遺跡は、熊本における人間活動の始まりを知る貴重な遺跡です。
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- 02縄文(展示)
寒かった氷河期が終わり温暖化が進むにつれ、地球上の人々の活動は活発になっていきました。このことは日本列島においても変わることなく、土器や弓矢という新しい道具を手にすることによって、食生活や狩猟技術の上で大きな進展をみました。
また、温暖化によって生じた内陸部への海の進出(縄文海進)は、魚介類の捕獲に好都合となり、全国に多くの貝塚が作られました。この時代の土器には縄文の文様をもったものが多く見られることから、縄文時代と呼ばれ、今から約1万6000年前に始まり1万3000年以上も続きました。
城南町域は有明海に面し、海・山の幸に恵まれたことから、阿高・黒橋(あだか・くろばし)貝塚、御領(ごりょう)貝塚など大規模な貝塚が多く見られます。- トップに戻る
- 03弥生(展示)
縄文時代の終わり頃に伝えられた稲作の技術は、金属器や新しい石器・土器などをともなって、北海道と沖縄を除くほぼ全国へと広がっていきました。この時代は弥生時代と呼ばれ、稲作を中心として社会が大きく変化した時代です。各種の資源や水利権をめぐる争いによってムラが統一され、クニが生まれました。大陸の国との交流が始まり、中国の書物にはじめて日本のクニが紹介されたのもこの時代でした。
城南町域には、弥生時代の中頃(約2000年前)から多くの人々が暮らしはじめたとみられ、各所にその痕跡が見られます。中でも新御堂(しんみどう)遺跡は、この地域でも有力なムラの跡と思われ、400基を超えるお墓(甕棺墓・木棺墓・土坑墓)や500棟を超える竪穴住居が見つかり、集落の周りには環濠が巡っていたことが確認されています。- トップに戻る
- 04古墳(展示)
弥生時代に伝えられた鉄器が普及するにつれて、人々のくらしは豊かになっていきました。ところが、その富を一人占めしようとするものが現れました。彼らは、力の象徴として競って古墳を築きました。3世紀終から約400年間続いたこの時代を古墳時代と呼んでいます。
城南町にも古墳文化は栄え、多くの古墳が築かれました。これらの古墳の中には、石棺に屍を入れてそのまま葬るものの他に、竪穴式石室・横穴式石室と呼ばれる石の部屋をもうけるものや装飾を施したものもみられます。 ここ城南町の塚原古墳群は、4世紀から6世紀まで約200年にわたって造られた古墳群です。古墳群には500基もの古墳が眠っていると言われ、全国有数の古墳群です。- トップに戻る
- 05古代(展示)
古墳時代にできた古代国家は、中国大陸や朝鮮半島の文化を吸収して天皇を中心とした律令国家として成長しました。 この時代には各種の役所が作られるようになり、国には国府、郡には郡家が作られ、各地に軍団(国家規模の軍事組織)も配置されました。また交通路も整備され、約16㎞ごとに駅家が置かれ、条里制といわれる区画整理も実施されました。
ここ城南町の舞原台地には肥後国最古の国府が、鰐瀬には益城郡の郡家があったといわれ、宮地には「球磨」とよばれる駅家があったと考えられます。現在の城南町「碇」は古くは「生河里」と書かれ、条里制のなごりを残しています。- トップに戻る