先人の思い、今に伝える
歴史展示室には、熊本市南区城南町の中世から近現代までの資料50点を展示しています。各所の遺跡からの出土品や古文書・仏像・戦前の教科書などがあり、注目は、熊本県指定重要文化財の『千々屋寺の馬頭観音立像』です。平安時代末の作とされ、その風貌から歴史の重みが感じられます
歴史展示室
- 01学校制度の始まり
明治5年に学制が発布され、近代的な教育制度の基礎が整備されました。国民のだれでもが教育を受ける機会を得ましたが教育費はすべて自費が原則で、保護者の負担は大きかったようです。 ここ城南町にも、明治7年から3ヵ年の間に11の小学校が建てられています。また明治20年には、各郡に1~2校の高等小学校が創設され、そのひとつが隈庄町(現熊本市南区城南町隈庄)に置かれました。
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- 02近世・近代ゾーン
近世
中世に成立した武家政治が充実し、封建制社会が確立した時代を近世といい、安土桃山時代から江戸時代までがこれに含まれます。
この時代は、膨大な文書が現在に残された時代で、文書による支配が確立した時代でもあります。幕府や大名が作成した法令の伝達は、すべて文書によって行われました。農村でも年貢の納入、土地・人口台帳、村明細帳など多くの文書を作成する義務が課せられ、裁決を求める文書も多く作られました。近代
1853年、アメリカの使節ペリーが開国を求めて浦賀に入港し、翌年徳川幕府はついに鎖国を解きました。
鎖国が解かれ、幕府が倒れて新しい政府が生まれると、進んだ西洋文化が入ってきて日本の社会や生活のしかたに大きな変化が現れました。ガス灯がともされ、かごに代わって人力車や馬車が出現し、牛肉店や西洋料理店ができ、「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」とうたわれ、洋風のものはなんでも文明開化といってもてはやされました。 しかし一方では、古寺や古城など貴重な文化遺産が破壊されるという、文明開化の悪い面もありました。- トップに戻る
- 03移民の父
“ブラジル移民の父”と讃えられた上塚周平氏は、明治9年7月12日、杉上村赤見(現熊本市南区城南町赤見)に生まれました。若くして海外発展の志を抱き、明治41年、170家族794人を率いて渡伯、幾多の困難を乗り越えて、サンパウロの奥地プロミッソンに第1・第2の上塚植民地を拓きました。大正12年には、548家族3000人の移民が約7300haの開墾地に314万本のコーヒーを栽培するほどになりました。 昭和10年7月9日に没するまで、その生涯をブラジル移民のために捧げた周平氏は、現在プロミッソンに手厚く葬られています。
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- 04中世
武士による政治が始まり封建制社会が成立した時代、つまり鎌倉から室町時代の終わりまでを中世と呼んでいます。
平安時代の中ごろに起こった武士は、中央貴族のうしろだてによって大きな力をたくわえ、朝廷と政権を二分するまでになりました。 鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、国司や荘園領主に対抗して国々に守護や地頭を置くなど、朝廷とは違った形で支配を広げようと考えました。この支配体制は室町幕府にも受け継がれ、いっそう支配が強まりました。室町幕府の終わりには、その守護や地頭の中から戦国大名に成長したものもありました。
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- 05中世社寺
千々屋寺(ちぢやじ)の馬頭観音立像(県指定重要文化財)
千々屋寺の馬頭観音立像は平安時代末期のもので、ヒノキの一木造り、腕は別木となっています(片腕は発見時から未確認)。大きさは、身高66㎝、蓮華座を併せると75㎝になります。
千々屋寺の名称は室町時代後期に建てられた千々屋寺(禅宗)に由来するもので、馬頭観音立像はそれ以前から付近の小堂に伝えられていたと考えられます。現在は、当資料館に展示されています。
照山寺( しょうさんじ)と能仁寺(のうにんじ)
城南町で注目される鎌倉時代の寺院に、鰐瀬地区の照山寺と下宮地地区の能仁寺があり、それぞれ豊田荘・隈牟田荘の氏寺として栄えました。
照山寺は志導寺(平安時代の益城郡郡寺)の後を受け継いだ天台宗の寺院で、現在は鰐瀬地区の氏寺として旧跡をとどめています。
能仁寺は菊池武房(隈牟田荘の地頭)が創建しており、肥後最古の禅寺と言われています。
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